最後の運転免許証
「やめとき、やめとけ、あんた92歳やぞ。それに肝臓がんを二度も、おまけに腎臓だって片方だけやないか」と周りの者は言う。やらねばならぬことがあるんだと私はつぶやく。
警察から免許更新の通知を受け、高齢者運転講習を早速教習所に申し込んだ。認知症、シミュレーターによる諸々の運転反応、運転実技など矢継ぎ早に検査や講習を受けた。その判定の結果、
「あなたは比較的確実な判断、操作のできる方です。但し身体の調子や毎日の家庭の環境でも変わることがあるので、余裕をもった運転と自己管理が大切です」と良好な評価を受けた。
大正生まれ。兵隊は丙種合格。昭和13年20歳で免許取得以来七十余年、幾度も更新してきた。これが最後の免許証。女性警察官から手渡され、「講習ご苦労さまでした」と優しく声を掛けられ、思わず涙ぐんだ。
免許証の顔写真を見つめ、なんとじいさんになったものだと感慨にふける。なぜ更新したのか?
実は妻の天然ぼけの進行を止めねばならぬ。軽症のうちに進行を遅らせる必要がある。妻を助手席に乗せて出かけ、刺激を与えることが肝要。妻はドライブが好きだ。家に閉じこもってはダメだ。
喫茶店のコーヒーの香りに癒やされ、あの店のうどんは天下一品、実においしいと諸々の話をしながら刺激を与える。車窓から桜並木の満開をめで、水辺にたたずむシラサギを飽かずに眺める。
こうしたことが症状の進行を抑えると思うからである。家内も90に近い。夫婦2人のこの今の、今が貴重な瞬間であるとつくづく思う。